将進酒に登場する人物、思想、炎国の組織について(アークナイツ考察)

8月 28, 2022

尚蜀(しょうしょく)について

尚蜀の風は高く、雲を払い月を弄ぶ。

将進酒 IW-ST-1 幕間 客来たれり

中国をモチーフとする炎国の一都市。新巒区(しんらんく)から流雲区まで奇峰や険しい山道が続いている。本来、移動都市は天災から逃れるという性質上、開けた土地を停留地とすることが多いが、人々が山々と共に生きることを選択したことから、尚蜀は山間に点在するための機構を有したばかりか、山そのものを移動都市に取り入れるという突出した土木技術を有している。

当然、山々をそのまま都市機構へ移築している関係上、相応の耐荷重が必要とされ、大地を走る機動性は大幅に低下している。天災の頻度は他地域と比較して少ないが、0というわけではなく、移動都市が存在しなかった時代に大きな被害を被ったことが、ニェンの回想秘録にて語られている。

司歳台より、天災に見舞われた尚蜀の再建を言い渡されていたニェンはある日、刀を作り、盲目の少年に貸した。少年は命を落としながらも、他の人間を通じて刀を返却したことでニェンとの約束を果たした。思うところがあったのか、ニェンはその後折れた剣を鋳造しなおし、鋼片を街の職人へ渡した。これがきっかけとなり、50年の時を経て尚蜀は高塔の立ち並ぶ近代都市へと変化した。


モデル都市

モデルと推測される現実の都市は中国四川省周辺、あるいはかつて四川省に属していた重慶市。「蜀」とは古代中国の実在した地域の名称であり、四川省成都市付近を指す。

重慶市は周辺に山地が広がることから「山城」とも呼ばれ、中国最長の川である「長江」が流れ込む。古来より、水上交通の要衝として発展してきたこの都市は、近年に至って輸送用機械、金属、医薬品、食品など幅広い分野の産業が活発になり、中国工業拠点の一つとして数えられる。その一方で、水と緑に恵まれた環境は、多数の文化財や景勝地を育み、重慶市を訪れる観光客は絶えない。


尚蜀にある地名は次の通り。

応峰路(おうほうろ)

未長区(みちょうく)にある、「将進酒」シナリオ最初にリーとクルースたちが邂逅する場所。湖面に映る双月、そびえ立つビルの照明と、自然と人工の相反する二つの様子を見渡す景観を有する。

争山渡(そうさんと)

アークナイツ「将進酒」アナウンスPV

リーが街へ入るために始めに訪れた、尚蜀の玄関口。壮大な山々に囲われる形で川が広がり、船を使わなければならないため、渡し場には多くの船頭がいる。

三山十七峰(さんざんじゅうしちほう)

《明日方舟》2022新春前瞻特辑视频

尚蜀の随一の名所。炎国外から観光目的で訪れる貴族たちもいるほどの景観となっている。三山のうち判明している名前は居奇山(きょきさん)、十七峰で判明しているのは、昏譚峰(こんたんほう)、取江峰(しゅこうほう)、別離峰(べつりほう)、梓雲峰(しうんほう)、青鑾峰(せいらんほう)、泥泥峰(でいでいほう、道が緩やかで人家が多い)、数舟峰(すうしゅうほう、劇場や旧市街が至る所にある)。「蜀道難し」と呼ばれ、どの山々も道が険しい。

蜀道難し

李白が蜀を旅することの困難さをうたった雑言古詩。

噫吁戲危乎高哉 蜀道之難難于上青天 蚕叢及魚鳧 開國何茫然 爾來四萬八千歳 不與秦塞通人煙

李白『蜀道難

ああ、危険で高峻なことよ、蜀道の困難なことは青天に登るよりも難しい、蜀の君主である蚕叢(さんそう)と魚鳧(ぎょふ)が国を開いて以来、四万八千年になるが、その間秦の国とは人煙も通じなかったのだ…と始まる。

……三山十七峰、仙あらば則ち霊あり。

古くは、尚蜀に夢多し。人に夢あり万物もまた皆夢の中にある。世人に曰く、「衆物に霊あらば皆神仙なり、千言万語を表すはただ一言の感嘆のみ」と。

伝説によれば、尚蜀の誕生は今から千年も前に遡ります。尚蜀人の祖先たちは、全く同じ夢を見て、その夢に導かれ、当時は都市など形も見えなかったこの地にやってきて根を下ろしたといいます。

将進酒 IW-3 戦闘前 光と影

古蜀(古代の蜀)の第3代君主とされる魚鳧は、狩りをしている時に仙人への道に入り、蜀の人間はそこへ祠を建立したという。また、蚕叢・柏灌・魚鳧の3人の君主は個別の王朝を構成し、蜀の地で養蚕・農業・漁業を行っていた部族であるとする説がある。


三山で起きた天災については『三山談』に記載されている。

将進酒シナリオより30年前にも予兆なく天災が…巨大な黒雲が街々を覆い尽くしたが、「尋日峰」と呼ばれた峰が消失し、いくつかの家屋に少し被害が出た他に影響はなく、死傷者は一人も出なかった。天災らしからぬその現象は「奇観」と呼ばれ、誰もその真相は知らない。ただ、幼き日のリャンのみが、天に向って酒盃を捧げた一人の女性を目撃していた。

太傅:いつからお主はこの山の主になった?
リィン:ふむ。そう言われてみると、確かに私は半ばこの山の主みたいなものだね。

将進酒 IW-ST-3 幕間 再対局

攥江峰(さつこうほう)

取江峰の古い呼び名。頂上には忘水坪(ぼうすいへい)という名の広大な更地があるのみだが、リィンの能力によって夢と現の境界線が弄られた際には東屋が現れる。

アークナイツ「将進酒」アナウンスPV

山を見て石を求め、淵に臨んで水を忘るる。

リィン回想秘録

頂上から眺めた絶景が画にも詩にもなっていないことを鑑みたリィンは「忘水」、つまり人知れず絶え絶えに流れている水を指す言葉を用いた。そのエピソードは、仙人が「淵に臨んで水を忘る」の道を悟った、という伝説として尚蜀で語り継がれている。


重慶には「綦江区」という名の市轄区がある。地理教材にて「綦江」が「纂江」として誤植されたと、重慶のメディア紙「重庆商报」は報じたことがあった。大陸では、Hypergryphがこれを更にもじって名付けたのでは、とする考察がある。

尋日峰(じんじつほう)

「三山十峰」と呼ばれていた時代に尚蜀に存在した峰。攥江峰と並ぶ最も雄大な双峰「双峰回日」と知られていた。本編より遡ること三十年前、大規模な天災によって雨風と炎が降り注いだことで消滅した。

食べ物、酒に関する元ネタ

湖松酒

「将進酒」シナリオの他、リィンの秘録にも登場するお酒。酒館の店員曰く、喉越し爽やかで、滋味深い甘み。

近い表現で、中国には「松山湖酒」というお酒が存在する。中国のお酒というと黄酒(醸造酒)である紹興酒のイメージが強いが、松山湖酒は白酒(蒸留酒)。広東省では、高級酒である「広東松山湖酒」を売り出しており、ブランド酒として市場に認知されている。

菊花茶

食用の菊の花を乾燥させた「菊花」をお茶としたもの。菊花の歴史は古く、2000年以上も前の中国から薬用として栽培されてきた。日本でも漢方として使われる。

甘藷(かんしょ)

サツマイモのこと。琉球では唐芋 (からいも) 、九州では琉球芋、日本のその他地方では薩摩芋とも呼ばれる。17世紀に中国福建省から琉球を経て九州など西国に伝播した。

毛血旺(マオシュエワン)

重慶市磁器口を発祥地とする有名な四川料理。アヒルの血が用いられる他、毛肚と呼ばれる牛の第一胃や羊の内臓を主食材とする。肉の他にもやし、レタス、木耳などの食材を加え、スープ味にするときは深鍋で煮込む。

正午茶

CN版での表記は「晌午茶」。「晌午」とは、四川省の方言で正午を、又は昼食を意味する。

《明日方舟》2022新春前瞻特辑视频

右手前のパッケージに「白尖」という文字が読み取れるが、四川省には「四川早白尖茶业有限公司」という会社が実在する。清明(4月上旬)前になると茶の木は芽を出し始め、新芽は白く尖るために、「早白尖」と呼ばれるようになった。

尚蜀の人物について

尚蜀知府

ウユウ:(あ、あれ恩人様……今やっと気付いたんですがリャン様って、もしや尚蜀知府の!?)
クルース:(ウユウくんのそういうとこにもなんだか慣れてきたなぁ。ところで知府ってなに?)
ウユウ:(おおっと、つまり市長さんですよ!)

将進酒 IW-2 戦闘前 尋ぬる処無し

炎国は、知府と呼ばれる為政者がそれぞれの都市を管轄している。尚蜀は梁(リャン)が統治しており、彼が活動拠点としている場所は梁府と呼ばれる。


知府の元ネタ

知府とは、地方行政区画「府」の長官を表す官職名。唐代から始まり時代と共に役割が変わり、宋の時代に正式な官職となり、清代に至るまで府の地方行政を担当した。

現代日本で言うところの知事。ちなみに、明治より制定された「知事」の名称は、元々「物事を治め司る」というサンスクリット語(カルマ・ダーナ)に由来する仏教用語であり、隋の時代に寺院の住職を指す言葉として使われた後、「知某州事」「知某県事」、短縮されて「知県事」「知府事」と呼ばれるようになった。

禅宗寺院では今でも「六知事」と呼ばれる、雑事や庶務を司る六つの役職が存在している。


アークナイツにおいても「知府」は、地方府の行政トップを担う役職を示している。

梁洵(リャン・シュン)

リー:まだ学生の頃に、先師閣(せんしかく)の外でお前は言っていただろう。民草の幸せを追求したいと。この暗く寒い大地で、皆が手を取り合って火を起こし、暖をとれるような世の中にしたいと。

将進酒 IW-4 戦闘後 持燭人

尚蜀知府の長。現在の尚蜀より100里以上離れた田舎で生まれ育ち、特段優れた家系の出自などは持たないが、民を救う志を持ち続け、今の立場へと堅実に登りつめていった。リーやワイフーの父親とは同学の仲。

かつて我々は学舎の門を叩き、商いを始め、を修め、そしてにまで手を伸ばした。

将進酒 IW-2 戦闘前 尋ぬる処無し

この一文は、それぞれ商いのリー、武のワイと、政治のリャンとそれぞれが進んだ道を示している。

『将進酒』においては、司歳台より「歳」に関わる酒杯の捜索、入手、引き渡しを求められたが、礼部との確執や、天師府を巻き込んだ争いになる可能性を考慮し、尚蜀がその喧騒の中心地となることを避けるべく、旧友であるリーを頼った。

功を焦る司歳台に対して表向きには協力する素振りを見せる傍ら、人の本質を見抜くことを得意とするリーならば例え全てを語らずとも満足のいく結果を出してくれるだろうと考え、特殊な出自を持つ船頭シェンをサポートにつけ、自らは不要に動かずして諸問題を解決するという為政者としての手腕を発揮している。

リャンの采配は太博の目に留まり栄転が決定。尚蜀知府としての座を去ることになる。

慎楼(シェン・ロウ)

慎楼

リーの尚蜀入りを手助けした船頭。船頭としての稼業を始めてからは20-30年ほど経つとリーに語った。

朝廷の討伐隊複数名と単身でやり合う実力、禁軍の若き教官がシェンを評価していること、龍門暗部の影衛同様に「笠」を被っていること、そして

浮萍雨師(ふへいうし)シェン・ロウはかつて軍に十年いたことしか知らぬが、思いのほか文芸に通じているのだな?

将進酒 IW-9 戦闘後 歳相

とタイホーより語られたことから、元々は炎国皇帝の近衛兵「禁軍」に所属していたことが分かる。大勢の兵士や天師が戦死し、祟りとして畏れられる北境の防衛任務を生き延びた経歴を有する。

浮萍とは浮き草、住所が定まらないことを意味する。雨師とは中国において雨を司る神を指し、竜王はかつて古来の雨神とされた。その二つ名に違わず、飄々として船頭を務めながらも、有事の際にはリャンより密命を受け、雨を操る能力で荒事を収める。

禁軍の元ネタ

皇帝直轄の軍隊。唐以前において禁軍だけが皇帝配下の軍隊であったが比較的脆弱なものであった。宋代になり、皇帝直属の軍事力を禁軍へ一本化し、地方権力を成長させる理由となっていた節度使を弱体化させることで、宋の太祖である趙匡胤は皇帝権力の強化を推し進めた。

行裕(ぎょうゆう)

行裕客桟内部

尚蜀にて商いをしている組織。ここ数年は応峰路にある飲食店兼宿屋の行裕客桟(きゃくさん)を運営している。行裕が運営している客桟は応峰路の他にも十数の支店が存在し、他店舗は行禄、行福のように、「行~」という名前になっている。三山十七峰には数百の山道があるが、いずれの茶館や宿場にも行裕に関わる人間が配置されている。

客桟以前は、行裕鏢局(ひょうきょく)と呼ばれる商いを主としていた。

酒杯を巡るいざこざで犠牲者が出て以来、行裕の代表であるテイは飲食に力を入れ始め、それが若い衆の不満が蓄積する状況を生み出している。

客桟の元ネタ

古来中国より発展してきた、旅人に食事と宿を提供する施設のこと。宿泊は必須でなく、飲食のできる休憩場所として活用されてきた。その歴史は西周(紀元前1100 – 771年)まで遡り、文書を運ぶ役人のために朝廷は主要路の国営宿場として客桟を整備した。やがて時を経るごとに民営化が進み、諸外国との交易が盛んになった唐の時代にはその数が飛躍的に増えたとされている。

また、将進酒には「酒楼」という言葉も出ているが、こちらは純粋に酒を出す料理屋を指す。

鏢局の元ネタ

清の時代に流行した、民間の運送警備保険業者のこと。金品や旅客の護送を請け負い、貨物が紛失や強奪により失われた際には、委託主に対して賠償する責任を有した。「将進酒」シナリオにおいても

ドゥ:うちは鏢局(ひょうきょく)をやってるの。用心棒みたいな仕事で、荒事も多いし仕事を巡った同業同士の争いも熾烈よ。

将進酒 IW-2 戦闘前 尋ぬる処無し

と語られていたこと、そして単なる物流会社に成り下がることを是としない意見が出ていたことから、現実における鏢局と同じような業種を指していると推測される。金品の護送を請け負う性質上、貨物が強奪される危険性があるため、賊と戦うだけの実力を有する人間が揃う。

鄭清鉞(テイ・チンユエ)

鄭清鉞

行裕鏢局総鏢頭。行裕客桟の番頭(店の万事を取り仕切る人の意)も務めている。

武器”霜刀”を手にし、元々は問霜客(もんそうかく)という異名の剣客として知られていた。若い頃は刀を携えて江湖の片隅にいたと口にしている。

ちなみに江湖とは、武俠小説(中国の大衆小説、武術に長けた義理を重んじる人間が活躍する)において、武術を身につけて結束、団体化した人々が所属する特殊な社会のこと。日本で言うところの「任侠」、誤解を恐れずに分かりやすく言うならばヤクザの世界。

鏢局における「荷は命よりも重い」という掟が災いし、過去、酒杯を巡る騒動でシャンの息子やドゥの父親をはじめとする十数人が亡くなる。以来、鏢局よりも客桟に力を入れ始め、養女として引き取ったドゥが跡を継いでも危険が及ばないよう気を回していた。

杜遥夜(ドゥ・ヤオイェ)

杜遥夜

『将進酒』シナリオより十年前、酒杯を巡る騒動で幼き頃に父を亡くしたため、テイに養女として育てられた。大陸版の将進酒紹介動画でエウレカが正午茶を紹介した際には、すかさず行裕客桟の宣伝をするなど、商魂たくましい。

周囲からは「ドゥお嬢様」と呼ばれ、不満のある若い衆のまとめ役として、そして次期鏢局の長としての役割が期待されているが、テイからは、鏢局の危険な仕事を請け負うことを懸念されている。

靚(しず)かなる杪秋(びょうしゅう)の遥夜、心に愁い宿りて哀有り。遥夜遥夜、遥か遥かな長い夜、いい名前ですねぇ。

将進酒 IW-2 戦闘前 尋ぬる処無し

リーが口にした名前の由来は、楚の文人である宋玉「九弁」からの引用。元の詩は、楚の王に仕えたものの才能を認められなかった宋玉が、自らの不遇を秋の悲愁に重ねて詩にしたものと解釈されている。

『将進酒』にて描かれたドゥは周囲の大人からは認められておらず、その満たされない野心が彼女の原動力となっていた。自らの力を証明するため、リーと共謀することで鏢局から司歳台への酒杯引き渡しを妨害し、テイの影響力低下を狙うも、総じて、彼女も囲碁好きの代理人が画策した酒杯を巡るいざこざに振り回された一人。

しかし、ドゥの行動はテイとシャンとの確執による決闘を止めるきっかけを生み出し、一人も死者を出さずに場をおさめる結果となった。

物語の終盤、次の舞台となるであろう玉門へ向かうことを口にする。

尚塚(シャン・ジョン)

尚塚

十年前より三山十七峰に出入りしている担夫で、天秤棒を持ち武器とする。元は行裕鏢局の鏢師(用心棒)として棒術で荒事解決にあたっていた。かつて酒杯を巡る争いで息子を失くしたことをきっかけに、人命よりも荷を重視する鏢局の姿勢に反駁し、離脱。以来「裏切り者」と呼ばれるようになる。

酒杯に関わる一連の騒動が鏢局を巻き込んだ背景は、囲碁を好む歳の代理人が、人間としての感性に近づきつつある同じ代理人たちを憂いて仕組んだもの。囲碁好きの代理人は、人に期待を寄せるニェンなどは一線を画し、リィンも妹たち同様に”人”らしくなることへ警鐘を鳴らす手段として、鏢局の確執を生み出した。

イェバンから酒杯を奪ったシャンは、テイに対して命を懸けた決闘を求め戦い始めるが、同じく身内を失くしたドゥが崖から転落した際、ドゥを救おうと飛び降りたテイ諸共救う形となる。

救われたことで戦意を失ったテイを見やり、結果としてリィンに見送られる形で矛を収めることとなった。

天師府

アーツの活用に長けた人材を登用する機関。試験によって認可された者を天師と呼び、他国でいうところのアーツ術師を炎国風に言い換えたもの。得意とするアーツ能力の種類によって専攻が分かれ、例えば土木に長けた者であれば土木天師と呼ばれる。「各天師府」と表現があることから、炎国の都市ごとに天師府が存在すると考えられる。

白定山(バイ・ディンシャン)

青雷伯(せいらいはく)の異名を持つ天師で、普段は陶工として生徒たちに陶芸を教えている老人。その実力は計り知れず、歳相(リィン、ニェン、シー)の影程度では問題にならず、天雷を世に落とせば司歳台と礼部の関係が崩壊するほどの能力を持つとされる人物。

礼部と関係を持ち、バイの率いる一隊は尚蜀に常駐している。

炎国朝廷について

炎国のモデルは中国であるが、その組織構造は特定の時代に絞って参照したものではなく、様々な時代の要素が混ざったものとなっている。将進酒で登場した名称と動きをざっくりと図解したものが下図。

炎国組織図
炎国組織図

煩雑になることを防ぐために図では省略しているが、礼部の権能の一つに天師府への指示がある。尚蜀で歳相の影が暴れ出した際の制圧手段として、先述のバイ天師一隊は尚蜀に常駐している。

太傅(たいふ)

太傅

この炎国の威光が届く域内において、わしが恐れるのは民衆が安寧を得られず、国が昌盛できないことのみ。

将進酒 IW-ST-3 幕間 再対局

「太傅」という言葉の由来から役割を推し量るならば、皇帝の師匠・補佐を担う人物。

リィンの言葉を借りるならば、炎国の大地を基盤、民を駒とした対局し、勝利したことで囲碁を好む歳の代理人を炎国へ捕縛した。酒杯を巡る今回のシナリオにおいても、リィンが「太傅が……白番なのか?」と口にしていることから、未だに囲碁好きの代理人と対局相手として采配を続けている。

代理人に対して強硬な姿勢を貫く司歳台に対し、リィンやニェンたちと交流のある太傅は、時に代理人と交渉するような柔軟な考えを持ち、炎国にとって最も利する行動を取っている。

元ネタ

太傅は西周王朝初期に、天子を補佐する大臣として設置された。『漢書』百官公卿表上によると、周において、太傅、太師、太保は三公と呼ばれ、天子を助け、導き、国政に参与する職であった。後漢においては、太師、太保はなく、太傅ただ一人が天子の重臣として置かれた。

明代以降は皇帝が即位するたびに置かれ、宰相としての機能を果たした。

政府の最上部だったり、天子の教師だったり、ただの名誉職だったりと、時代によって重要度が変わるためその役割を一括りに説明することは難しいが、総じて皇帝の側近として要職についている人物と言える。

礼部

炎国の行政を担う一機関。

史実の礼部は後述するように役割の一つとして”祭祀”を担っていたが、巨獣という名の神が実在するテラの世界においては現実的な問題として対処しなくてはならない側面もあってか、圧倒的な軍事力を誇る天師府の一隊を動かしうるだけの権限を持つ組織となっている。

また、将進酒では天師府への指示系統も存在することが判明しており、各地の天師府が炎国へ奉仕する人間を試験によって登用する役割を担うこと、そして史実の礼部が”科挙”を実施していたことから察するに、礼部はその取りまとめをする機能を果たしていると考えることもできる。

元ネタ

隋唐時代の律令体制によって制定された中央管制は三省六部からなる。三省とは、中書、門下、尚書の各省があり、中書省は皇帝の詔勅を立案起草する機関、門下省は詔勅や奏文を審議する機関、尚書省は政務を実行する機関。尚書省の下には吏部(官吏の選任)、礼部(教育・祭司・科挙)、兵部(軍事部)、刑部(司法)、工部(土木)の六部が置かれた。

省と同じ名であるため紛らわしいが、唐の時代には礼部の長官を尚書次官を侍郎と呼んだ。

唐代の六部

唐代では、科挙の学術試験は礼部侍郎が司掌した。唐~元時代にかけて、礼部には1-2人の次官がおり、明の時代は左侍郎、右侍郎に分かれていた。左尊右卑、つまり「左」は「右」よりも役職が高い

アークナイツにおいても、長官は尚書、次官は左侍郎であると推測される。

寧辞秋(ニン・ツーチウ)

リャンと共に仕事をする女性。プライベートでも芝居やお茶に誘うなど、単なる「仕事仲間」と言い切るには言葉が足りない間柄。大陸版の将進酒紹介動画では

リャン様のポーカーフェイスはカッコいいです

とコメントしており、MCのエウレカがそのまま読みあげてしまったために、まるでエウレカがリャンに好意を寄せてしまっているかのような雰囲気になりかけて「私の感想じゃないです」と慌てて取り消す一幕が見られた。

常日頃から傍にいるためか、あまり感情を表に出さないリャンの真意を悟るのが得意であり、将進酒においても酒杯を巡る隠し事を見抜いていた。

その正体は、朝廷の従二品(じゅにほん)勅使、礼部左侍郎。分かりやすく言い換えるならば、礼部のナンバー2。『将進酒』より3年前、尚蜀へ定住したリィンを監視する目的で、立場を隠し梁府へと潜入した。

知府であるリャンと懇意にする中で、リャンが司歳台から巨獣の意識が眠る酒杯の捜索と確保、引き渡しを求められるが素直に司歳台へ酒杯を引き渡すつもりが無いことに、ニンは気づく。

礼部と司歳台の板挟みになるリャンを見かね、ニンはバウンティハンターであるイェバン(ブラックナイト)の手を借り、尚蜀に深刻な被害が及んだ際にリャンだけがその重責を負うことにならないよう采配した。

 ただ、全く自覚もないまま、これだけ多くの面倒事に彼が巻き込まれてほしくなかったから、ですかね。

将進酒 IW-ST-3 幕間 再対局

若くして礼部の要職についている理由については、後に実装されるオムニバスストーリーで語られる。

司歳台

文字通り「歳を司る」機関。

テラの世界には、巨大な体躯を持ち人の理とは異なる価値観を有する「巨獣」という名の生命体が存在。例えば、イェラグにおける神「イェラガンド」がそれに該当し、研究対象とする「巨獣学」という学問が各国で研究されている。

巨獣学において、炎国司歳台はテラ世界における先駆者とも言える組織であり、元々は礼部の下部組織であったが、囲碁を好む歳の代理人が起こした騒動をきっかけに、独立した権限を有して任に当たるようになる。

『将進酒』シナリオより1年前、ヴィクトリア・ウルサス・リターニアなど各国の異変を察知した炎国は、朝廷の会議を経て「二十八策」と呼ばれる重点政策と秘匿された「ニ策」を策定。

太傅は司歳台に対して次の3つを命じた。

①酒杯を取り返すこと
②囲碁を好む歳の代理人による被害を最小限に留める
③三人以上、歳の代理人が集まったときに太傅の親書を渡す

炎国における碁の名手、相孺(シャンルー)が囲碁好きの代理人との対局によって命を落としたことは司歳台がなりふり構わず酒杯確保を急ぐきっかけとなり、リャンからの引き渡しを待たずに酒杯を強奪せんとする行為や、リィンを見張るニンを差し置いて代理人たちに接近しようとする司歳台の動きは、各所の軋轢を招く火種となる。

左宣遼(ズオ・シュアンリャオ)

炎国の軍人。司歳台に所属し、平祟侯(へいすいこう)とも呼ばれる。 太傅の密命により、息子であるズオ・ラウを尚蜀へ派遣し、太傅の命令を遂行した。代理人たちを刺激する行為は巨獣としての姿「歳相の影」を呼び起こす危険性を孕んでいるが、礼部と関わりのある天師府の実力者、バイ天師を対抗策として充てることで事態の収束を目論んでいた。

本来、バイ天師率いる一隊を動かす権限は礼部にあるため、(名目上は止むに止まれぬ礼部が動かす形式とはいえ)指揮系統を飛び越えて軍事組織を動かすといっても過言でないこの策は”暴走”と呼べる行為であり、元々司歳台が礼部の下部組織であったという歴史を鑑みても、歳を巡る問題解決を名目に更なる権益拡大を狙った司歳台の策略であるように他組織の目には映ることとなる。

左楽(ズオ・ラウ)

宮廷信使(炎国が抱えるトランスポーター)を自称する少年。

信使とは、中国語で外国に派遣する使者や特使を指す言葉。英語版ではMessengerと表記されている。実は今までも同じ単語が使われており「トランスポーター」と訳されてきたが、イベント「将進酒」は中国モチーフの炎国という舞台に雰囲気を合わせたのか、日本版のみ「信使」という単語へ変更している。

ロドスオペレーターのことをウユウお兄さん、クルースお姉さんと呼んでいるが、原文の意味としては~~殿というニュアンスになるため、日本版のみキャラクター性がやや幼い印象へアレンジされている(他のキャラはYostar訳でも中国語の~~兄は~~殿と呼んでいる)。

その正体は司歳台最年少の持燭人。

タイホーの態度から察するに炎国朝廷においても感染者の目は厳しいと考えられるが、ラウに関しては特段の差別意識が態度として表れることはなく、次のセリフからも分かる通り、分け隔てなくロドスのオペレーターとも対話を試みようとする姿勢が見られた。

鉱石病は感染者にとっての不幸でしかないのに、彼らの責任や能力と何の関係があるんです?

将進酒 IW-4 戦闘後 持燭人

司歳台を代表する立場として酒杯捜索にあたっていることもあり、どのような結果になろうとその責任を自らが背負うことを覚悟した上で、代理人をオペレーターとして採用しているロドスに対しては司歳台として感じている危機感をハッキリ伝えたり、人の理から外れた存在であるニェンやシーに対して威圧感を放ち、毅然とした態度で接するなど、年齢不相応に腹の据わった決断を下す。

他方、後日実装されるオムニバスストーリーではレイズに対してのみ、そういった老成した人格とは異なる一面をのぞかせる。

粛政院

御史台、大理寺と並ぶ、行政の監察機関の一つ。

粛政院監察御史は百官に目を配り、朝廷の綱紀を正す方々。

将進酒 IW-3 戦闘後 光と影

元ネタ

名前としては、唐の時代に設置された左右粛政台や、民国の「粛政庁」が近い。前者は行政の監察機関で、地方の巡察のために特使が州県へ派遣された。後者は、行政訴訟や判決執行の監視としての役割を担っていた。

唐の時代、御史台は三省六部から独立した官吏の監察機関として機能していたが、中国唯一の女帝として知られる武則天の時代に「(左右)粛政台」と名称が改められ、左を朝廷、右を地方の監視する役割とした。

アークナイツにおいて、レイズは次のように語っており、御史台と粛政院が同列であるような印象を受ける。

御史台、大理寺、粛政院……どれもただの組織に過ぎません。

レイズ昇進後会話2

史実において、御史台と粛政台(庁)が同時期に存在したことは無い。

アークナイツにおいて「朝廷の綱紀を正す」=朝廷の監視と捉えるならば、地方を監視する右粛政台=御史台、朝廷を監視する左粛政台=粛政院と考えると収まりが良い。

ちなみに、「監察御史」とは、地方を巡察し、行政を監視する官僚。唐の時代には、察院に所属する役職であった。

唐代の御史台

太合(タイホー)

太合

6章でレイズ、名称不明の監察官と共に龍門を訪れた炎国の役人。土石を操る能力を有している。今回のイベントで語られた役職は、粛政院の副監察御史(ふくかんさつぎょし)。

ズオの護衛を務める傍らで司歳台の暴走を監視しながら、酒杯を巡るリャンの采配と結果を冷静に観察しており、太傅が到着する頃には上奏文を起草し終えている。

「忠を取り義を棄てる」、つまり義理人情を捨て粛政院としての役割を全うすることが『将進酒』における行動指針となっており、1度目はリャンより司歳台の独断専行をどう思うのかと問われた際に、2度目はズオがタイホーが行動を共にした真意に気づいた際に、口にしている。

大理寺

炎国における行政の監察機関の一つ。

大理寺の元ネタ

大理寺とは、現代でいう最高裁判所。刑罰・司法を管轄する官名は、秦漢時代は「廷尉」、北斉では「大理寺」、清朝では「大理院」と呼ばれた。「寺」とは現代の日本語では寺院の意味で使われているが、元々は中国で役所を意味する言葉。

秦・漢の頃、中国政府の事務を執行する機関は9つの部局が存在していた。大理寺は法務機関であり、司法や裁判を司り刑罰を執行したが、後に刑部がその枠割を担うこととなる。唐の時代になり、尚書省・六部の権限が確立されたことで、九寺の役割はほとんど形骸化していった。

レイズは「大理寺少卿」と呼ばれていたが、仮に唐の時代を参照するならば「卿」の下に位置づけられ、同じ立場の人がもう1人いることになる。※下図赤枠

唐代の九寺

麟青硯(リン・チンイェン)

レイズ

レイズのこと。元々は政府の要職であったが、とある事件に深入りしてしまった関係で左遷され、現在の立場に落ち着いている。

私の推測では、彼女はあの事件のために自らを追放したのだろう。どこにおいても、公正で容赦がない人ほど、自分を追い詰めてしまう。あんな事件に首を突っ込むのは、自らの将来を棒に振ることを意味する。しかし考えてみれば、大理寺においては、あの類の者は珍しくないのではないだろうか?

レイズ第四資料

シー:監察官とロドスはどういう関係なの?
ニェン:レイズは辺境の地へ左遷された身だし、しかも今は基本的にロドスへは来ない。そんなにあいつが気になるのか? あそこの官僚たちと揉めでもしたのか?
シー:フッ、あんな小物の監察官なんて気にしてないわ。気にしてるのはあの雷術の大元よ……彼女の師匠、それといつも私たちに睨みを利かせてる老いぼれども。面倒なやつらばっかりよ。

画中人 WR-ST-3 幕間 答え

『将進酒』においてレイズは、大理寺としての立場で行動しているわけではない。天師府の一員として、歳相を巡る一連の騒動における司歳台の目論見を察知し、先んじて動かぬようバイ天師を説得することで、組織間の軋轢が深刻化しないよう行動した。

その行動の真意は、後に実装されるオムニバスストーリーで垣間見ることができる。

欽天監(きんてんかん)

炎国における天災観測機関。天災を察知し、対象地域へ警報を出す役割を担う。

元ネタ

明・清の時代に天文を担当した官庁の名前。 役割として、天文観測や暦の作成、天災などの予報を担っていた。

明代

故事、漢詩の意味

しめやかに全てを潤す

将進酒 IW-ST-1 幕間 客来たれり

日本語だと分かりにくいが、CN版だと「润物无声」となっており、唐代”詩聖”杜甫の『春夜喜雨』に「润物无声」という表現がある。

成都の夜雨の情景を楽しげに描き、時を経て万物を潤し育む春の雨を情熱的に賛美しているもの。擬人法を用いて、春の雨を繊細かつ鮮やかに表現している。 詩的で絵画的な構成で、軽快で優雅な雰囲気を漂わせている漢詩。

罔両が影に問う

将進酒 IW-1 戦闘前 化物

『荘子』斉物論第二には「罔両と影の問答」が出てくる。

罔兩、景に問いて曰わく、 「曩(さき)には子(し)行き、今は子止まれり。 曩には子坐し、今は子起てり。 何ぞ其れ特操無きや」と。

景の曰わく、「吾れは待つ有りて然る者か。吾が待つ所も、又待つ有りて然る者か。吾れは蛇・蜩翼を待つか。悪くんぞ然る所以を識らん。悪くんぞ然らざる所以を識らん」と。

ある時、影を縁取る罔両が影に質問した。
「あなたは、先ほどまで歩いていたのに今は立ち止まり、先ほどまで坐っていたのに今は起ち上がっている。何故そのような節操のない動きをするのだ」と。

影は答えた。「なるほど、私は頼るところ、つまりは形(人間の肉体)につき従い、それが動くままに動いているのかもしれない。しかし、私がつき従っている形そのものも、また別に頼るところがあり、その何ものかに従って動いているのではないか。私は、蛇の腹の鱗や蝉の羽のような儚きものを頼りにしていることになるのだろうか。自然の変化のままに従っている私にとっては、なぜそうなるのかも分からないし、そうならない理由も分からない」と。

『荘子』斉物論第二(35)

ここでいう罔両(もうりょう)とは妖怪・怪異の類ではなく、陰影のふちに生じる薄い影、ぼんやりした影のこと。

一切の存在が自生自化する実在世界において、形も影も罔両も、ただ自然として存在し、ただ自然として変化するのであって、そこには何らの因果関係もなく、互いに依存することもない。荘子はこの万象の自生自化を、常識が最も密接な相対関係に在ると考える影と形と罔両との問答に例えて説明した。

貴人に忘れ事多し

将進酒 IW-1 戦闘後 化物

中国のことわざ「贵人多忘事」。偉い人は一々人のことなど覚えておれず、用事が多くて物忘れするという意味。晩唐に生まれた詩人の王定保によって執筆された『唐摭言』に記載がある。

蜿蜒たるその道の先に長煙あり

将進酒 IW-2 戦闘後 尋ぬる処無し

CN版では「峰回路转现长烟」。北宋の政治家・詩人である欧陽脩の『醉翁亭记』に「峰回路转,有亭翼然临于泉上者,醉翁亭也」とあり、山の峰や道が曲がりくねっている様子を表現する言葉として「峰回路转」という熟語が生まれた。山道の先には江南四大名亭の1つとして数えられる「醉翁亭」があったという。

アークナイツにおいては、道の先に東屋があった。

碁が終わりて人の世のかわるを知らず

将進酒 IW-7 戦闘前 混乱

CN版は「棋罢不知人换世,梦醒只道是何年……何年……何年……」、欧陽脩の『梦中作』より。

夜凉吹笛千山月,路暗迷人百种花。
棋罢不知人换世,酒阑无奈客思家。

欧陽脩『梦中作』

夜は水のように冷たく、月は千の山を包み、哀愁を帯びた笛の音が遠くまで流れ、道端の百花繚乱は鮮やかな色彩を放っている。碁をした後、世界が変わったことを実感し、何年経ったか分からない。酒で悲しみを紛らわせたが、強い郷愁の念を払拭することができない。

この詩は、人が夢の中で見たことを記したもの。

「夜凉吹笛千山月」は静かな夜景の話。 「涼」「月」という単語より、時期は秋頃。 明るい月が遠く、或いは近くの丘を昼間のように照らし、すべてが静かになった夜の涼しさの中で、笛を奏でる。

「路暗迷人百种花」では、別の場面が描かれている。 続く「路暗」で時間は夜であることを示し、「百种花」で季節を春に変えて、百種類の花が美しさを競っていることを表現。 ここでは、道は暗く、花は盛んで、春の夜の情景は夢の中の世界を描いている。「夜凉吹笛千山月」と併せて、霞がかった雰囲気と時代を超えた言葉遣いで、次の箔付けの役割を担う。

「棋罢不知人换世」は伝説の物語を引き合いに出して、世の中の変化を表現。 ここでは、任芳『梁塵秘抄』を引用しており、詩人の、世を超脱(世俗的な物事から、更に高い境地にぬけ出ること)する思いが込められている。

最後の「酒阑无奈客思家」は、詩人の超脱願望と郷愁について書かれており、詩人が超脱を望みながらも、世間への執着を忘れることができないことを表している。

これら4つの節は4つの異なる気分を歌っているが、合わせてみると調和のとれた統一体となり、地上にいながら時空を超越したいという詩人の相反する思いが込められている。詩を書いた欧陽脩はこの頃はまだ荊州におり、朝廷から再任されていない頃。この詩の憂鬱と恍惚は、創り手の、当時の政治的失敗と関係があると推測される。

この詩が引用された場面の直前には、酒杯の主がとある詩人 — リィンであることをズオ・ラウがクルースに語った場面であり、誰かが碁を打つ音を聴きながら酒がなくなったことを気にする仕草からも、夢と現実とを行き来するリィンのセリフであると推測できる。

日尽きて水は長に去る

将進酒 IW-9 戦闘前 歳相

晩唐の政治家・漢詩人である李商隠(りしょういん)の『谒山』「从来系日乏长绳,水去云回恨不胜」より。

古来より、太陽を結ぶ長縄はなく、過ぎ行く水は東に流れ、白雲は転がり、もどかしさが募るばかりである。

古代人は時間の流れを止めるために、沈む太陽を長縄で押さえようと考えたが、そんなものがあるはずもない。無限に続く時間の流れは誰にも止められない。高いところを見上げると、川が東へと果てしなく流れているのが見える。 毎日、毎週、毎年…一瞬一瞬が繰り返されているようで、鳥は飛び立ち、帰ってくる。春は過ぎ去り、再びやってくる。この明瞭な輪廻の中で、輝かしい年月の連なりが無情にも過ぎ去っていくのである。

一日の循環は一日の経過を、春の循環は一年の経過を、老人から子供への循環は一世代の経過を意味する。太陽は日々東から昇り西に沈み、春夏秋冬のサイクルを繰り返しているが、それは人生や社会、宇宙がいかに悲しみや無力に満ちているかを暗示している。

また、後半の「雪落ちて~」について、中国の詩詞では「月」が「寂しい」「物悲しい」という意味を含んで使われるが、ここでの「空しく」も同じ意味か。「雪が落ちる」を時間表現として捉えるならば、四季の流転、戻らない時間を象徴し、不変的に空へ昇る月との対照的な表現ではないかとも考えられる。

太古と、そして果てしなく途切れぬ時間を歩んできた。実のところ、時間とは場所である。逍遥たる者だけが、足を止められる場所だ。

将進酒 IW-9 戦闘前 歳相

悠久な時間と共にリィンは炎国の景色を眺めてきた。物事に囚われることなく、リィンは日がな詩を吟じ、酒を愉しむ。

事を急ぐズオへ興ざめだと返したリィンの一言には、早く成果を得ようとするばかりに組織間の軋轢を生む司歳台を宥めるようなニュアンスか。

まだ思いついてない七種目の武器

将進酒 IW-9 戦闘後 歳相

中国の武侠小説『七種武器』より。長生剣、孔雀翎、碧玉刀、多情環、覇王槍、離別鉤と武器の名前を冠した6つの物語に別れている。当初は7つ目の武器についてまで描かれるはずだったが、6作目で打ち切りとなった。

道は自然に法り、大道は至って簡なり

将進酒 IW-9 戦闘後 歳相

CN版は「道法自然,大道至简。」老子『道徳経』より。

人法地,地法天,天法道,道法自然
人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る

有物混成、先天地生。寂兮寞兮、獨立不改、周行而不殆。可以爲天下母。吾不知其名、字之曰道。強爲之名曰大。大曰逝、逝曰遠、遠曰反。故道大、天大、地大、王亦大。域中有四大、而王居其一。人法地、地法天、天法道、道法自然。

老子『道徳経』

漠然とできあがったものがあった。それは天地より先に生まれていた。それは沈黙し、形がなく、独立し、不変であり、広大無辺である。それは万物の母のようである。その名を知らないので、仮に「道」と名付けた。あるいは「大」と呼んでもよい。「大」は無限である。故に、どこにでも到達でき、そして元の場所に戻ってくる。「道」とは「大」である。天の本性は「大」である。大地の本性は「大」である。王の本性も「大」である。世界には4つの「大」が存在する。人を統べる王はその一つでなければならない。人は地に従い、地は天に従う。天は「道」に従う。「道」は、そのあるがままである。


「老子」を理解する上で避けては通れないのは「道」という概念だ。老子の哲学を根本を出すものは「天道の概念」であるが、老子以前の天道は意志と知覚を持ち、喜怒哀楽を持つ存在として描かれてきた。これは天と人とを同類と見做し、「天人同類説」と呼ばれる。それに対して老子は「天地不仁」、つまり天地は人と性質が同じものではないとする。

老子は古き時代の「天道の概念」を打ち破り、自然哲学の礎を築いた。老子の最も大きな功績の一つが、天地万物を越えた外側に「道」というものを仮定した点にある。この「道」は声も形もなく、単純にして不変、それでいて天地万物の中を巡り、天地万物の源となる。「道」の作用は意志を伴うものではなく、ただ「自然」…自ずから「然」(そのよう)である。

老子は殷・周以来の人格神、天の権威を取り消した上で、時間と空間を越えた形而上学的な本体を打ち立てた。この名もなき本体に対して「道」という名を与え、更にそれが「大」であるとした。


先に茫洋として何も分からぬ状態の中から抜け出し、天地が示した初めての問題の答えを出せた者が、年長者となる。

リィン第二資料

元々、リィンたち代理人は混沌の中から生まれた。画、碁、農作、鍛冶、詩吟…己の楽しみを見出し、長い時間をかけて「我は誰か」という答えを見出したものより、歳と呼ばれる共通体から人格が分離し、それぞれの個性を成す。言い換えるならば

「なぜ私は私なのか」

古今東西、哲学の一分野として議論されているものであり、様々な哲学者たちにより数多の解答が示されるも未だ共通解には至っていない問題の一つである。

目の前に現れた歳相は、今一度ニェンたちに存在の意義を問うてくるようでもある。

歳相と相対して、ニェンとシーがある違和感を覚えた直後、リィンは老子の言葉を引用した。それが示すのは「道」の概念、つまりは知覚できない天地万物の源。

何故に歳相が、代理人たちそれぞれの個性となった楽しみの一つである「絵」を扱うのかという疑問。「天地不仁」…つまりは、本来人格を持ちえないはずの混沌が、何故に芸術という人間ならではの行為を真似るのか。つまるところ、目の前の「歳相」は、ニェンやシーたち代理人が生まれる以前の「歳」に非ず。「歳相の影」、言い換えるならば自らの投影に過ぎない。

千年を貫く咆哮に込められる憤怒、あるいは恐慌、結局はどれも己の執念でしかない。

勲章「目醒め」

ニェンやシーは本来の「歳相」が目覚めることによって自らの存在が消滅することを恐れたが、リィンは次のように諭す。

君たちは君たちであり、自分たちの考え、自分たちの喜怒哀楽、自分たちの愛する物事、気に入る人、恋しい風景がある…… この大地に生きることは、素晴らしいことではないのかな。 アレに構ってどうするの。

将進酒 IW-9 戦闘後 歳相

それぞれの人格持つ代理人の特徴を吸収し、発生した「影」をどうして恐れる必要があるのか。

囲碁好きの兄が巡らせた一手に、リィンは畳み掛ける。

アークナイツ「将進酒」イベントPV

『荘子』斉物論篇では、万物斉同(万物は道の観点からみれば等価であるという思想)、視点・立場のとりかたによって変化する認識の相対性が説かれている。

等価であるならば、何故消滅するのが「歳相」側であってはならないのか。夢を見る側が自分たちであってはならないのか。

道教が持つ思想体系の功利の一つは、経験に基づく主観性からの脱却にある。

 ――我は我、彼れと何の関係があるの?

将進酒 IW-9 戦闘後 歳相

物は彼れに非ざる無く、物は是れに非ざる無し

荘子『斉物論篇』

彼れとは「あれ」、主体から離れた対象それ自体についての客観的判断。是れとは「これ」、対象を自分の思惟の中に包み込んだ主観的判断。「あれこれ」と区別する二項対立から自由になり、状況に無限に対応していけるならば、経験主義の足枷を外すことができる。

将進酒 IW-9 戦闘後 歳相

先述の「罔両が影に問う」を、改めて。

「一切の存在が自生自化する実在世界において、形も影も罔両も、ただ自然として存在し、ただ自然として変化するのであって、そこには何らの因果関係もなく、互いに依存することもない。」

画中人においてシーは「何が真で何が偽か…あなたは本当に線引きができるの?できないなら、それを真面目に考える必要がある?」と口にし、真偽の区別に意味はないとした。しかし、今回のイベントでは「歳相と自分」…「彼れと是れ」とが同一であるが故に「歳相」の影響を受けてしまうことを恐れた。

それに対して、リィンの答えは「どうだっていい」。

本質的には歳相と代理人たちとの関係は依存し合うものでなく、独立したものであるならば恐れる必要はないと、リィンは妹たちを導き「影」を看破した。

 生は皆夢幻、露の如く雷の如く、跡なきこと泡影の如し

将進酒 IW-9 戦闘後 歳相

CN版は「生皆梦幻如露,无踪泡影」。大乗仏教の般若教典、金剛般若波羅蜜経(金刚经)より。

一切有为法,如梦幻泡影如露亦如,应作如是观。

「諸行無常」を説いた節で、夢幻泡影(むげんほうよう)、泡沫夢幻(ほうまつむげん)と四字熟語化されている。

仏教における到達点は”悟り”と表現されるが、道教における到達点は”神仙”と表現される。今日に伝わる大乗仏教は道教の思想を多分に含んでいるが、道教も隋唐代の頃に仏教の影響を十分に受けており、「悟り」を得ることで神仙の境地に至ることを重視する風潮が強くなった。

因果によって生じるこの世の諸法は、夢のようであり、泡の中の影のようであり、のように得体が知れず、無常で変わりやすい。 同時に、稲妻のように刹那に変化する。我々はこの世界一切のものを常にこのように見て、それに縛られることなく、本来の自由、解放された性質を持たなければならない。

リィンは「影」に縛られることなく、本質を見破り、「夢」から醒ますことで霧散させた。

それは夢と現実とを自由に行き来するリィンだからこそできる芸当であり、リィンが道教における1つの到達点――”神仙”の領域に達していることを暗示するとも解釈することができる。

いまだに酒に酔った時は、野営地の角笛が聞こえてくる時がある

将進酒 IW-ST-3 幕間 再対局

中国南宋の政治家・詞人、辛棄疾(しんきしつ)の『破阵子·为陈同甫赋壮词以寄之』より。

醉里挑灯看剑,梦回吹角连营。八百里分麾下炙,五十弦翻塞外声,沙场秋点兵。
马作的卢飞快,弓如霹雳弦惊。了却君王天下事,赢得生前身后名。可怜白发生!

辛弃疾『破阵子·为陈同甫赋壮词以寄之』

辛棄疾は20代前半、故郷の李成(現在の山東省済南市)で金(12-3世紀、中国の北半を支配した女真族の征服王朝)に対する反乱に参加した。政治家として大成しなかった辛棄疾であるが、文人としては名高く、金に対抗し宋による故地回復を願った文章を数多く残している。

酔った勢いで剣を手に取って眺めていると、各地の軍営で次々と角笛が鳴り響いた時代へと意識が飛ぶ。酒や食事が配られ、荘厳な軍楽の演奏は士気を高めた。凱旋の秋だ。軍馬は的盧(※三国志の劉備の愛馬。谷を越えて劉備を救った)の如く走り、弓矢は雷のように耳を揺さぶる。主君のために失われた領土を回復し、代々受け継がれる名声を得るという大仕事を成し遂げようと燃えていた。 夢から覚めてみると、髪の毛が白くなっている自身に気づく。

祖国への忠誠心や野心を露わにしながら戦場へと赴く激しさを伴った夢と、野望叶わず寂しげに悲しみに暮れる老成した自らの現実とを対比させたこの詞は、辛棄疾のやり切れない野心と憤懣やるかたない気持ちを反映しつつ、老衰してなおその心には火を灯していることが仄めかされている。

炎国北の辺境を100年に渡って守り抜いたリィンは、太傅から過去の功績を語られた際に辛棄疾からの引用で返答しており、未だ自らには有事の際には炎国の民を守る意思があり続けることを暗に示したものか。

十二楼と五城

将進酒 IW-ST-3 幕間 再対局

五城十二楼。司馬遷『史記』に「黄帝の時、五城十二楼を為り、以て神人を候う。」とある。その後、東晋における道教研究家の葛洪『抱朴子』にも登場し、五城十二楼は崑崙山上にあり、神仙がいる城楼と記された。

道教における神仙説は、『抱朴子』によって確立されたという。

テラ世界の人々から見ればニェンたちは「神仙」とも言える存在であり、五城十二楼が築城された暁には史実のように「神仙のいる」城楼と噂されるのかもしれない。

乾坤の大きさを知るも、いまだ草木の青さを哀れむ

将進酒 IW-ST-3 幕間 再対局

浙江省生まれの中国現代思想家であり、儒教の大家として知られる馬一浮『旷怡亭口占』の「已识乾坤大,犹怜草木青」より。世の中の浮き沈みや波乱を経験しても、春になって身をかがめて草や木が成長し緑を取り戻すのを見れば、慈しみの心や喜びを感じることができる、という意味。

草木が枯れることは、自らの人生に何をもたらすのか。春と秋の移り変わりは、自らの財産にどう影響するのか。人生の重荷に耐えられないときに、草が緑になるか、春にまた花が咲くか、どうして気にかけられようか。人は、いつしか周囲の声に流され、「成功」という価値観に興味を奪われてしまう。

リィンは、そのような世俗的な価値観とは一線を引いているように見えるが、兄である代理人は、リィンが人との関わりが増える中で変化していく様を見やり、その行く末を憂慮した。

「将進酒」に込められた意味

李白「将進酒」を元にしていることは想像に難くないが、あらゆる場面で酒や酒杯を巡る人と人との関り合いが描かれている。

それは、例えばリーとリャンに。

リャン:……酒でも飲むか。そろそろ一杯付き合ってやるべきだろう。
リー:……いいだろう。そうさ、とっくにそうすべきだったよ。

将進酒 IW-4 戦闘後 持燭人

李白の「将進酒」は仲間と共に酒を飲んだ情景を詩に表したものであるが、リーやリャンもかつての仲を温めるように、酒を酌み交わした。

それは、例えば鏢局の確執に。

たかが酒杯、されど酒杯。

その荷は人命よりも軽いか重いか。その価値観の違いは鏢局内の争いを生み出す。

それは、例えば囲碁好き代理人と司歳台に。

酒杯一つに人々が振り回される様は現実世界の理で考えてみれば滑稽な様であり、囲碁好きの代理人はそんな人々を揶揄うように策を講じた。

人間(じんかん)は酔い耽って久しい、なのに我が思う存分夢を見ることすら許されないか?

将進酒 IW-9 戦闘後 歳相

混沌より生まれし神仙からしてみれば、人々が執着する現実世界も、酒で酔った末に見る夢も、そんなに大差はない。

この大地に生きることは、素晴らしいことではないのかな。

将進酒 IW-9 戦闘後 歳相

人生 得意 須らく歡を盡くすべし
人として世に生まれ、心にかなうことが有ったなら、歓びを味わい尽くすことが肝腎だ。

李白『将進酒』

詩仙と呼ばれた故人と同じく、この刹那、あるいは永遠の、夢、現実を味わい尽くす。

込められたメッセージは複雑怪奇なものではなく、案外そのままの、単純なメッセージなのかもしれない。

「さあ酒を飲もう」

参考文献

謝保成『官制史話』

吉田恵『「老子」における「道」の概念』

松浦友久編訳『李白詩選』

参考リンク

『荘子』斉物論篇における「彼」「是」の問題について
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390853649766479104

道教神仙説の成立について
https://hamada.u-shimane.ac.jp/research/32kiyou/10sogo/seisaku01.data/seisaku108.pdf

六朝道教における人間観の研究
https://core.ac.uk/download/pdf/39210819.pdf

,アークナイツ

Posted by shikine